ライ麦畑の向こう側

解体新書と備忘録です。

人の言葉で語るのはもうやめよう、とあたかも自分の言葉で宣言をする。

言葉に祝福されたい。

 

 

あたかも自分の言葉のように書き下していたものは、すでに誰かに語られてしまっていて。

いつかのときに、もうどうしようもないくらいに凹んだ理由が、自分がこれは!と思っていたものが、

新聞の読者投稿欄で40代の主婦の人が同じようなことを語っていたことを知ってしまったことだったのを思い出した。

 

 

小説家になりたいな、と思って一生懸命文章を書いていたときで、

自分が言いたいこと、考えていることは、自分が言葉にしないと絶対に世の中に届かない。しかも、それを必要としている人がきっとそこにいる。

そんな勘違いをしていたときだから、その投稿をみつけたときには「おるんかい!」と思いながら、「もう、やめっぴ。」となってしまったのだ。

 

 

たぶん、そんなことがあったから、僕はこの仕事を選んだのだろうなと思う。

みつけてほしい、みとめてほしい。

そんな思いがあったから、”個人のれん”を掲げられるこの仕事を選んだのだろう。

 

 

でも、最近になって、そのことを思い出して、

「語られているのなんて、仕方ないじゃんね」とこっそり思えるようになった。

 

 

 

何冊も小説を読んで、

サリンジャーとかチャンドラーとかヴォネガットとか、

そういうアメリカ文学の人たちの、しかも翻訳文学を読んで言葉を勉強したんじゃないかと。

 

 

意識しようがしまいが、生活の端々でそれが使われていて、

そんな感じで過ごしてきたから、40歳の主婦が革新的なことをいっていようがいまいが

、僕が凹む理由になんててんでならないのだ。

遅かれ早かれ、それはそういう風になる運命だったのだから。

 

 

 

 

だからこそ、それがわかるいまだからこそ、

僕は言葉に祝福された人間になりたい。

 

 

夏目漱石みたいな、前人未到の言葉の世界に。

 

 

 

 

そこには、たくさんの無口の人が存在している。

僕だけがマイクを持っていて、僕だけがずっと喋り倒しているのだ。

 

「自分の言葉で語るのだ。さあ、いまこそ皆様に言葉の祝福のあらんことを」

 

と、そんなことをまくし立てているのだろう。

 

 

でも、その演説が終わった後に僕はつぶやく。

「こっそり耳打ちされた気がするんだ、誰か昔の人に」

 

 

でも、そんなことはかまいやしない。

そういうものだから。

 

 

いつか、そんな風に喋り散らかした後に、

すっきりと、誰の声も聞かずに、

耳鳴りも頭痛もしないままふかふかのベッドで寝られるようになりたい。

 

 

人の言葉で語るのはもう嫌だから。

自分が痛い思いをして、削り出した自分の言葉を産み落としたい。

 

 

 

ライ麦畑の向こう側に、いざ行かん。

 

 

おしまい