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ライ麦畑の向こう側

解体新書と備忘録です。

ありのままを見て、ありのままを愛しなよ

”没入”という経験を、大学生のときにはよくしていたと思う。

というのも、よく小説を読んでいただけなんだけどね。

 

 

当時は、言外を読み取ろうとしてエッサホイサと何回も何回も読み返していたわけですが、最近はいろんなものを読みたいなと思い、さらさらと読んでは単に「おもしろかった」という感想だけしか残さないようになってきてしまいました。

いまよりも少し熱血漢だったので、本を読んではああでもないこうでもないとtwitterとかでぶつぶつ言っていたな〜気持ち悪い。と少し懐かしい気持ちでいっぱいです。

 

 

 

大学に入って初めて芥川の河童を読んで、うわっ本てめっちゃおもしろいんだな!と思ったことがすごく懐かしい。

あれからいろいろ本を読むようになったけど、あれが自分の人生に大きなきっかけを与えたどうかというと定かではない。

  

僕は誰に聞かれてもサリンジャーの本が一番おもしろいと言っていて。

そういう意味で考えれば、今週のお題「人生に影響を与えた1冊」は「フラニーとゾーイー」しかあり得ないなと思い至った。

 

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

 

 

初めて僕がその本を読んだのはたぶん大学2年の夏ぐらいだったんじゃないかなと思う。

 

小難しいんだけど、なんてこたない愛の話で。

それも、男女の恋ではなくて家族の愛というところがすごくいい。

でも、おそらくそれを読んだ大半の人はなんのこっちゃさっぱりわからないと思うし、僕もほとんどわかってんのかわかってないのかそれすらもよくわからんという感じなのだ。

 

ただ、当時はその衝撃をとにかく誰かに伝えたくて。

ものすごくロマンチストな少しゲイっぽいバイトの先輩と、いろいろ喋りながら歩いて帰ってきて、深夜一時にサリンジャーについて熱く語りながらも「この人なんで俺の家までついてきたんだろう?」とヒヤヒヤしていたことをいまでも思い出す。

(彼は元気だろうか、ジャングルポケットの斎藤さんにすごく似ていたな。)

 

 

 

 

 

フラニーとゾーイー」は、”フラニー”と”ゾーイー”という二つの中編?小説で成り立っていて、グラースサーガーと呼ばれるグラース家について描かれた一連の小説の中でも、唯一と言っていいぐらいに話の関連性と時間軸がわかりやすい物語なのだ。

 

とはいっても、すでに書いている通りとてもわかりづらい。

サリンジャーは自分のために書いていると公言していた通り、誰かにあとがきを描かれるのもすごく嫌がっていたぐらい「誰かに理解してもらうために書いたのかなこれ」と思うような小説だ。

 

 

しかし、読み終えて約10年たっている今もなお僕の心を掴んで離さないのは、それがすごく人間くさい小説だと感じたからだ。

「人を人として、自分が期待する理想を他人に押し付けるんじゃなくて、そのままを愛せよ。」というメッセージががつんと響いた。

(小説文そのままではないです。悪しからず)

 

 

 

 

でもさ、それってすごく難しいんだよね。

10年たっても難しい。なかなかできないんだよね。

  

どっかで期待してしまう自分がいて、当たり前だけど期待通りになんて人間関係はならない。

だからぶつかって、悩んで、どうしたらええねんという感情がぐるぐる渦巻いていくのだ。

 

 

 

その度に気がついて自問自答する。

 

 

お前が向き合っているのは誰なんだ?

鏡の中の自分を、こっそり持ち出してきているだけなんじゃなかろうか?と。

 

 

そして、改めてゾーイーの優しい言葉が聞こえてくるのだ。

「そのまま愛しなよ」と。

 

 

 

 

世の中いろんなことあるんだけどさ、まさにそれだけが真理だと思うんだよね。

何回も何回もわからなくなって見失ってしまうんだけど、それを忘れて突っ切っていってしまったら、家族とも友人とも誰とも彼とも付き合ってなんかいけないんだよな。

そういうものなんだよね。

 

だから、いつまでたっても僕の中の”バイブル”は「フラニーとゾーイー」(とりわけゾーイー)なわけで。

誰に聞かれても子供が生まれても、一番最初にこの物語を薦めてあげたいと思っている。

 

 

「楽に生きなよ、カリカリすんな。」

ありのままを受け入れなよ、てな具合にかっこいい兄貴分・親父としてこの本を放り投げてやるのだ。

(すげえいいじゃんそれ、絶対やろう。)

 

 

そろそろ読み返してみようかな。

そうしよう。

 

 

 

以上、人生に影響を与えた1冊についてでした。

 

おしまい