怒りすぎて、恐らく心臓を痛めている
やめる宣言をしてから2カ月間、以下のことを自分に課していた。
・なるべく何もやらない
・嫌われてもいいから叱る
・正直にしゃべる
立場的に、やめるにあたって何を残していくべきかなと考えると、上3つが浮かんできた。
何もやらないのは、当たり前だけど下ができることを増やすため。
叱るのも然り、煙たがられても当たり前を当たり前にやってもらうため。
(このせいかはわからないが、とても心臓がいたい。おそろしい。)
正直にしゃべること。
これが結構難しいけど、真実を見る必要があるから。
夢を抱くために現実を見る。
批判をするために出来るようになる。
自分を見つめ直すために人をよく見る。
小学校でならうようなことだけど、基礎はいつだって変わらないんだなあと思った。
残すところあと2週間ちょっと。
なにか下に伝えられれば良いなと思う。
良いなと思いながらも、結構しんどくてもはや自分が病みそうになる。
こんなに体力使うことだとは思わなかった…
ということで、今晩は珍しく一人で晩酌でもしよう。
明日も怒り心頭で楽しめますように。
なむなむ
憂いが立ち込める7月30日
身震いするほどニンニクくさい。
昨日の最高においしい焼肉のせいで、だいぶ今日は苦しめられている。(自分に)
何かいい対処方法はないだろうかとネットサーフィンをしていると、驚くべき記事を発見した。
植物は思った以上にハイスペックだった。…(以下略)
引っ越してからフィカス先輩やオリーブ嬢を育てているので、どういう風に接せばより成長をするのだろう?と思っていたところ。
これはとてもよい記事だと思った。
恥ずかしながら「調子どう?」とか「全然のびないねー」とか、声をかけていたこともあながち間違っていなかったんだと思えた。
哺乳類と話せるといっても、心が通じあってんのかは甚だ疑問だが、少なくとも何かしらの信号は与えられていたのだろうと勝手に納得をした。
小学生の頃に、夏休みの自由研究で
<2つのトマトそれぞれに「ありがとう」・「バカ」と書いた紙を張り付けて、どういう変化があるか>
という金賞の研究が展示されていて、どうもそこから言葉の力というものを過信してきたところがあるのだが、まさにこれは正しかったんだなと改めて思った。
当時も、写真でみるみるうちに「バカトマト」がしぼんでいくのを眺めて、言葉ってこわいなあと思っていたことを思い出し、ああそういえばもうすぐ8月だったなあと郷愁にかられるのだ。
当時の僕は、たしか米を研いだ汁で石鹸をつくるという、誰もが思いつきそうな実験を一生懸命考えだして、一人で薬局を渡り歩いていた覚えがある。
小学校4年生ぐらいのことだったけど、向こう5年ぐらいはグリセリンが自宅の洗面所に陣をはっていた。
グリセリンなんて、石鹸つくるぐらいしか用途がないんじゃないかと今でも信じている。
今思うと、よくもまあそんなくだらないこと思いついて一生懸命やっていたなあと思うけど、あの一生懸命さってあんまりないよなあと少しだけ懐かしくなる。
自由研究なんてほんとに嫌いだわ―とか思ってたけど、いまになって思うけどすごく不毛な割に恐ろしい程有意義な時間だった。
ああやって、くだらないながらも何かを一生懸命考えて、誰の得にもならない物を作り上げる時間ってもうそうそうないんだろうなと思うと泣けてくる。
そのまんまの言葉の意味ではないけど、あんなに無駄な時間ってこれ以降あるんだろうか?
汗水ながして一生懸命石鹸作って、その時に石鹸ていう漢字を覚えたあのころが懐かしい。
なんだこの郷愁感は。
こんな予定じゃなかったのに。
気がつけば2015年も8月になろうとしていて。
次こういうことを思うころには、自分の子どもの自由研究とか手伝っているんだろうか。
いよいよ蒸し暑くなってきた。
夏だ。夏が来たのだ。
おしまい
右脳の開発がしたい
トレンディエンジェルのネタを見て、ひとしきり笑いきる。
iPhoneのホームボタンを押して思うのは、やっぱし右脳が発達している人になりたいなあ、ということだ。
見た目は去ることながら、どのタイミングで「斉藤さんだぞ」をぶち込めば笑かせられるのか、そういうイメージを持てるのは純粋な才能だよなと思うのだ。
そういう幅を持った、三次元で物事を考えられる人になりたい。
(斉藤さんにはなりたくはない)
割りかしパワーポイントは得意なんだけど、絵があんまり得意じゃない。
そもそも真っ直ぐ線が描けないから、つまりそういうことなんだと諦めている。
絵が得意な人というのも、たいてい三次元で物事を考えられる人たちで、そういう人たちにもやっぱり憧れる。
目の前のことを言葉で語る以外に、何もない空間に鉛筆だけで物事を組み立てられて、二次流通の世界を生み出すこと。
ある意味恐ろしいんだけど、感情表現の幅が広がるんだろうなあというのが純粋にうらやましい。
芸術に長けている人たちは、どんな世界がみえているんだろう?
自分には見えない物体とか、色彩検定の教科書に載っていないような色とか、なぞるだけで何か生まれるような型でもあるんだろうか?
そもそもみんな何を見ているんだろう?
僕が愛でに愛でているフィカス。
こういうのも葉っぱの上に小僧かなんか乗っかって見えるんだろうか?
葉っぱに手が生えていて、そこにやけに綺麗で目がでかくてやるせない、もののけ姫のコダマみたいなのがいるんだろうか?
そういうのも、やっぱし右脳の世界なんだろうなあと羨ましさを覚える。
つまり、何が言いたかったんだろうと思い出すけど昨日のことなので忘れてしまった。
もう少し右脳が大きくなりたい、これだけのことを言うために睡眠時間含めて7時間かかった。
もうちょっと毎日書いてみよう。
1日1文章。
がんばろう。