ライ麦畑の向こう側

解体新書と備忘録です。

憂いが立ち込める7月30日

身震いするほどニンニクくさい。
昨日の最高においしい焼肉のせいで、だいぶ今日は苦しめられている。(自分に)


何かいい対処方法はないだろうかとネットサーフィンをしていると、驚くべき記事を発見した。

植物は思った以上にハイスペックだった。…(以下略)

karapaia.livedoor.biz


引っ越してからフィカス先輩やオリーブ嬢を育てているので、どういう風に接せばより成長をするのだろう?と思っていたところ。

これはとてもよい記事だと思った。
 
恥ずかしながら「調子どう?」とか「全然のびないねー」とか、声をかけていたこともあながち間違っていなかったんだと思えた。
哺乳類と話せるといっても、心が通じあってんのかは甚だ疑問だが、少なくとも何かしらの信号は与えられていたのだろうと勝手に納得をした。
 
 
小学生の頃に、夏休みの自由研究で
<2つのトマトそれぞれに「ありがとう」・「バカ」と書いた紙を張り付けて、どういう変化があるか>
という金賞の研究が展示されていて、どうもそこから言葉の力というものを過信してきたところがあるのだが、まさにこれは正しかったんだなと改めて思った。
 
当時も、写真でみるみるうちに「バカトマト」がしぼんでいくのを眺めて、言葉ってこわいなあと思っていたことを思い出し、ああそういえばもうすぐ8月だったなあと郷愁にかられるのだ。
 
 
当時の僕は、たしか米を研いだ汁で石鹸をつくるという、誰もが思いつきそうな実験を一生懸命考えだして、一人で薬局を渡り歩いていた覚えがある。
小学校4年生ぐらいのことだったけど、向こう5年ぐらいはグリセリンが自宅の洗面所に陣をはっていた。
グリセリンなんて、石鹸つくるぐらいしか用途がないんじゃないかと今でも信じている。
 
 
今思うと、よくもまあそんなくだらないこと思いついて一生懸命やっていたなあと思うけど、あの一生懸命さってあんまりないよなあと少しだけ懐かしくなる。
自由研究なんてほんとに嫌いだわ―とか思ってたけど、いまになって思うけどすごく不毛な割に恐ろしい程有意義な時間だった。
ああやって、くだらないながらも何かを一生懸命考えて、誰の得にもならない物を作り上げる時間ってもうそうそうないんだろうなと思うと泣けてくる。
 
そのまんまの言葉の意味ではないけど、あんなに無駄な時間ってこれ以降あるんだろうか?
汗水ながして一生懸命石鹸作って、その時に石鹸ていう漢字を覚えたあのころが懐かしい。
なんだこの郷愁感は。
こんな予定じゃなかったのに。
 
 
気がつけば2015年も8月になろうとしていて。
次こういうことを思うころには、自分の子どもの自由研究とか手伝っているんだろうか。
 
いよいよ蒸し暑くなってきた。
 
夏だ。夏が来たのだ。
 
 
おしまい