ライ麦畑の向こう側

解体新書と備忘録です。

天才か努力家かただのアホか

今週のお題「思い出の先生」”ということで。

僕にとっての先生といえば、いつだって高校時代の部活の顧問が思い出される。
常に「頭をひやしなさーい!!!」と試合中に叫ばれていて、一番僕の性格を捉えてくれていたんじゃないだろうか。

 

いまでも頭に血がのぼると、毎回先生がコートの外で叫んでいる姿を思い浮かべる。
先生に教えてもらった考え方は、いまもこっそり僕の中で生きています。

ありがとう先生。死んじゃいないけど。

 

 

 

 

さて、昨日は自称天才の先輩とご飯を食べた。
もはや自称はいらないかもしれない、なぜなら彼は天才なのだ。


”世の中は○種類の人間に〜”うんたらという言葉を最近もよく聞くけれど、たしかに言い得て妙だなと思う。
僕が思うに、世の中は天才か努力家かただのアホかに分かれている。

その大半は努力家であふれていて、おそらく残りのほとんどはアホで埋め尽くされている。
天才は、その間を縫うように前に前に歩いていく、おそらく2%ぐらいの外見アホな人たちであろう。

努力家はアホを笑い、アホもアホを笑う。
そんな中で天才は努力家を笑っている。

誤解のないように、敵意は全くないし、僕はアホか努力家かでいうとたぶん努力家に分類される。
さらに言えば、天才が努力家を笑うのは決してバカにしているのではなく、優しい優しい微笑みを見せている。と思う。


とにかく、天才は優しい。
天才は自分を天才として認めているけど、努力家のことを認めて、かつ見守ってくれる。

もう嘘はやめよう。
努力家は自分たちの生きる世の中をより生きやすくするために嘘をついているけど、天才は天才として存在するのだ。
ありのままに受け入れよう、どうあろうと僕らは天才を目の当たりにするのだから。



そんなこんなで、天才の大変ありがたいお話をたくさん聞いたわけだけど(もったいないことにあんまり覚えていない)、
最終的には「最近二回戦できるようになった」と嬉々としながら話すのを見て、やっぱりこの人アホだわと思ったいい夜でした。

ありがとうございました。

おしまい

最終出社を終えてエトセトラ

8/28(金)の最終出社を無事に終えて、9末までの有給期間についに突入した。

長かったようであっという間な新卒1社目生活は、いろいろあったけど総じて良かったなあと思う。
…なんとも陳腐な言葉で我ながらびっくりした。でも、まあその言葉が一番いまの気持ちを表しているから良しとしよう。


振り返ってみると、1発1発が自分にとってかなりインパクトが強かった。
それは精神的なダメージも然り、何より知らんことが多すぎて、でもプロの看板を掲げる以上は「わからない」を言い訳にしない!と必死こいていたため、またもや陳腐な言葉だけどすごく勉強になる毎日だった。

日によってはくだらないこともあったけど、捉え方次第でどうとでもなる現場だったなあと改めて思う。
いつぞやに、社長に向かってくそ生意気な言葉を吐いて、それでも笑いながら「自分次第だ」とタリーズで諭してもらったあの日が、結果的にはこれまでのすべての行動に影響を与えていたんだなと今なら思える。
見え方によっては大企業だけど、すごく"アドベンチャー"な会社だった。良いか悪いかは置いておいて。

もう一方の道なんてなかったわけだけど、この会社に若いときに乗り込んでいけて良かった。


とはいえ、もう一生飛び込みたくはない業界だな。笑 遅いことがどうこうでなく、正義と不義がこんなにも紙一重な業界はないと思う。それがきつかった。
くそ真面目な話しでもないんだけど、ハッタリを飛ばさないといけないのはもう疲れてしまった。真っ直ぐ働けるようになるのは、本当に嬉しいことだ。

そういう意味においても、次の場所がすごく楽しみで。また違った大変なこともあるんだろうけど、これまでに比べたらなんてことないんだろうなと思える。

さて、がんばろう。
とりあえずは、1ヶ月有意義なものにする。

今までありがとうございました。
引き続き頑張ってまいります。

よろしくお願い致します。

寝違えた首が一向に正されない

寝違えてから早3日目。

こういった類のものって大抵1日で治るもんだと思っていたのだけれど、もともと右を向きがちなのかどうも治りが悪いみたい。

体の衰えを感じることが多いここ最近は、気がつけばリビングで寝散らかしてしまい、やれトドがおるだのアザラシが寝よるだのと囃されながらもゴロンゴロンと寝返りを打つだけなのだ。

なんかこう、体がすごく休みのモードに入っている。
おそらく向こう何十年かはやってこないであろう約1ヶ月の夏休みを目前に、「整理をする」というなんとも曖昧で、しかしすごくもっともらしい目標を立てて余計な思考をシャットアウトしようとしていることが原因の一つかもしれない。
余計なことは考えない。ただ、砲丸のように重くなった自分の体を、輝かしい未来にぶん投げるだけでいい。
それでいいのだ。


そんなときにふと思い出すのは、いつも若さという言葉なのだけれど、この唐突な話題転換もやはり若さということなのだろうか。
でもいいや、ここでは自分がすべてのルールだから。

若さには、いつも前段がない。
前にも後ろにも、相関関係なんてなくてもいいのが若さの特権だと思う。

ピザが食べたいと言うことと、友達に感謝の言葉を述べるのとが、「それでね」という接続詞(?)で繋げて許されるのが"若さ"だ。

そういうことに違和感を覚えないし、覚えたところで関係ない。
ご存知であろうか、これが若者の全てなのだ。

世の中からすれば僕も大概くそ生意気な若者年齢な訳だけど、そんな僕から見ても「大変なこった」と思うやつらはたくさんいる。

前段がない、というか、前段を組み立てられない人が多いのか。
そういう人たちが書いた企画書を見るときには、どうしてこの話をしてるんだろう?と終始謎解きをする必要がある。

そういうときには大抵、「言いたいこと、わかるやろ?」精神がふんだんに盛り込まれているのだ。
読む相手、喋る相手に「お知恵を拝借」つって甘えくさるのが若者たちの性質だ。

なぜそんなことが起こるのかと言うと、もうそれはキレキレだから、としか言いようがない。
キレキレなのよ、若者は。

日本語なんて正しく使わなくても、ヨミの力がみんな備わっているから会話が成り立つ。
だから、懇切丁寧なブリーフなんて関係ない。

そんな人たちがうようよしているもんだから、なにかとコンフリクトが会社とかで生まれやすい。
こういう性質を理解していないと、まともに取り合いすぎておそらくノイローゼになる。
何回言ってもなにも変わらないから、うまくのせて転がすのが若者を扱うための最適手段なのだ。

もっとこう、若者についての啓蒙を、ケンタウロスみたいな中間世代がする必要があるとおもう。
擁護じゃなくて、ブラックボックスに明かりを照らすことで、うまいこといくように調整するのだ。
じゃないと、みんなアンハッピーで誰も得しなくなるから。


「調整」ね。
整理に次いですごく便利なことばだ。


さて、さっき食べたニンニク漬けが効き始めたから、そろそろ寝よう。
なんでかって、僕もまた"若さ"が溢れているから。
水でも飲むか。


若者は、前段がない。
我ながら、なかなか的を得てるんじゃなかろうか。

おしまい